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名前 | ||||||
愛称 | ゴールケア (Golkjaer)、野牛 | |||||
ラテン文字 | Preben Elkjær Larsen | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | デンマーク | |||||
生年月日 | 1957年9月11日(66歳) | |||||
出身地 | フレゼリクスボー | |||||
身長 | 183cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
フレドリクスボアBK | ||||||
19??-1976 | バンローズIF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1976 | バンローズIF | 15 | (7) | |||
1977-1978 | 1.FCケルン | 9 | (1) | |||
1978-1984 | KSCロケレン | 190 | (98) | |||
1984-1988 | エラス・ヴェローナFC | 130 | (48) | |||
1988-1989 | ヴェイレBK | 28 | (8) | |||
代表歴 | ||||||
1975-1976 | デンマーク U-19 | 11 | (6) | |||
1976-1989 | デンマーク U-21 | 9 | (9) | |||
1977-1988 | デンマーク | 69 | (38) | |||
監督歴 | ||||||
1995-1996 | シルケボーIF | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
プレーベン・エルケーア・ラルセン(Preben Elkjær Larsen, 1957年9月11日 -)はデンマーク出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。屈強な身体を活かしたドリブル突破と左足のシュートが特徴の選手で、「ゴールケア」や「野牛」などの愛称で呼ばれた。1984年にはバロンドールの投票で第3位、1985年には2位となった。
1977年、デンマークのVanløse IFからドイツ・ブンデスリーガ1部の1.FCケルンに移籍した。奥寺康彦とのポジション争いなどもあり主力に定着できず、1年半後にベルギーのジュピラー・プロ・リーグに属するKSCロケレンへ移籍 した。ロケレンで頭角を現し、「ロケレンの狂人」の異名を得た。
1984年、UEFA欧州選手権1984後に、レアルマドリードやACミランとの争奪戦を制し、セリエAのエラス・ヴェローナFCが獲得した。ここでハンス=ペーター・ブリーゲルらと共にリーグ戦初優勝に導いた。このシーズンのユヴェントス戦では、ユヴェントスDFのタックルによりスパイクが脱げたが、それでもゴールを決め、このゴールはキャリアを代表する印象深い得点の一つとなった。またこのゴールにより、シンデレラというニックネームも付けられた。
1998年に当時デンマーク・スーペルリーガに属していたヴェイレBKに移籍し、1990年に引退した。
デンマーク代表としては1977年6月22日に行われたフィンランド代表戦でデビュー。1980年代中盤にはミカエル・ラウドルップと2トップを組み、1984年にフランスで開催されたUEFA欧州選手権1984では2得点をあげてベスト4進出、1986年にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップでは欧州予選で単独トップとなる8ゴールを決め予選突破に貢献すると、本大会でもグループリーグ第2戦のウルグアイ代表戦においてハットトリックを決めるなど4得点をあげて決勝トーナメント進出に貢献した。なお、ワールドカップではベスト16でスペイン代表と対戦し1-5と大敗を喫したが、自身はこの大会で評価を高めた。
その後、1988年に西ドイツで開催されたUEFA欧州選手権1988に出場し、同年6月14日に行われたグループリーグの西ドイツ代表戦を最後に代表から退いた。デンマーク代表での通算成績は国際Aマッチ69試合出場38得点。
引退後、1995年から1996年までデンマーク・スーペルリーガ所属のシルケボーIFで監督を務めた。
その後は解説者に転身し、ブライアン・ラウドルップらと共にUEFAチャンピオンズリーグの解説を務めている。
プロ選手らしかぬ行動が話題を呼び人気のある選手であった。ヘビー・スモーカーであり、スピードカーの愛好家であった。スピード狂であり、自ら乗用車を街中で運転してもとてつもないスピードを出すことで知られていた。ハンス=ペーター・ブリーゲルはラルセンとのドライブ後に「(彼の運転を)生き延びることができて良かった」と発言している。このようなドライビング技術から「クレージーホース」とのニックネームでも知られていた。